キプロスは地中海に位置する戦略的要衝として、歴史的に多くの大国の支配を受けてきた。特に、オスマン帝国からイギリス植民地時代を経て、独立を勝ち取るまでの過程は波乱に満ちていた。本記事では、キプロス独立運動の歴史と、その後の影響について詳しく解説する。
オスマン帝国支配とイギリス統治の始まり
キプロスは1571年にオスマン帝国によって征服され、約300年間その支配下にあった。しかし、19世紀に入るとオスマン帝国の衰退とともに、イギリスの影響が強まった。1878年、イギリスとオスマン帝国の間でキプロス協定が結ばれ、キプロスは事実上イギリスの管理下に置かれた。その後、第一次世界大戦中の1914年にイギリスは正式にキプロスを併合し、1925年には正式にイギリス植民地となった。
エノシス運動とギリシャ系住民の反発
20世紀に入ると、ギリシャ系住民の間で「エノシス(ギリシャとの統一)」を求める動きが強まった。特に、ギリシャ独立戦争(1821-1829年)後の民族主義の高まりにより、キプロスのギリシャ化を目指す声が大きくなった。1931年には大規模な反英暴動が発生し、ギリシャ正教会の指導者たちもエノシスを推進する中心的な役割を果たした。しかし、イギリスはこの運動を強く弾圧し、自治を求める動きを制限した。
EOKAの結成と武装闘争
1955年、ギリシャ系民族主義組織「EOKA(キプロス民族解放戦線)」がゲオルギオス・グリバスによって結成され、武装闘争が始まった。EOKAはイギリス軍を標的にしたゲリラ戦を展開し、多くの爆破事件や暗殺を実行した。一方、イギリスはこの動きを弾圧するため、厳しい戒厳令を敷き、ギリシャ系住民に対する弾圧を強化した。この時期、トルコ系住民も台頭し、対抗組織「TMT(トルコ防衛組織)」を結成し、キプロスの分割を求める動きを強めた。
ロンドン・チューリッヒ協定と独立の成立
EOKAの活動が激化する中、イギリスはギリシャとトルコを交えた交渉を開始した。1959年、ロンドン・チューリッヒ協定が締結され、キプロスは1960年にイギリスからの独立を果たした。しかし、この協定にはギリシャ・トルコ両国の軍事介入権が含まれており、将来的な対立の火種を残した。
キプロス紛争とトルコの侵攻
独立後もギリシャ系とトルコ系の対立は続き、1974年にはギリシャ軍事政権の支援を受けたクーデターが発生。これに対抗してトルコ軍が北キプロスに侵攻し、島は南北に分断された。現在もキプロスは南のギリシャ系政府と北のトルコ系政府に分かれたままであり、国際社会による統一の試みが続いている。
現在のキプロス問題と統一への課題
現在、キプロスの南北統一を目指す交渉は続いているが、政治的・民族的な障害が依然として多い。EU加盟を果たした南キプロスは経済的に発展しているが、北キプロスは国際的に承認されておらず、トルコの支援に依存している。統一に向けた国際的な努力が続く中、キプロス問題は今後も地中海地域の安定に影響を与える重要な課題であり続けるだろう。
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